ボンバードラミだっていいのだ
演奏活動とトレーニング活動。 あるいは日々の介護のこと。 気付いたこと 感じたこと やってみたら巧くいったこと 発見、試作、工夫、改良の日々を綴ります。
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母がよく言う。
日本の音楽はうるさい
あんたが車で聴かせてくれる音楽はどれもこれも素晴らしいのに
これを聴いているはずなのに出てくるのがそれってどういうことだ?
と。
一番厳しい客なのだ。
払いは良いが言いたい事は言わしてもらうぜ
というカッコいいスタンスの
今時(パノ)ニカ婦人風な母なのだ
外国のジャズを聴くとボーカルはみんなささやいているし
バックは歌の邪魔をしない
日本のボーカルものは劇団四季ばりに張ってるし、
また張らないと聞こえないくらいに
バックもでかい。だそうだ。
母の音楽を聴く基準は
其処に存在する人間にとって
邪魔になるかならないかだけだ
素人の聞き方だけど
それは一番大きなザルの目であり
其処さえ通過出来ない音楽って一体!?
何故そういう事になっているのか
端的に言えば技術不足につきるが
それでは身も蓋もないので
もう少しかんがえてみる
外国音楽と日本音楽の決定的違いはいくつかあると思う。
こういうくくりにしてしまうのもどうかと思うので
『分かってる音楽と」『分かってない音楽」というくくりでもいいし
もっと単純に「いい音楽」と『悪い音楽」と書き換えて読んでもらってもいいと思う。
1)いい音楽では演者が副交感神経を興奮させており
悪い音楽では演者は交感神経を興奮させている
やればやるほど落ち着いてリラックスして行くいい音楽に対して
悪い音楽はやればやるほど興奮して行く
スイングしてアドリブして個性的である事がジャズの最低必要条件だとすると
其処にもう一つ、副交感神経が刺激されていなければならない
ということを付け加えたい。
自律神経は意識的にコントロールするのは大変に難しい。
演奏する前に寝る前と同じ気持ちになれといって
オッケー!と答えられるのはローラくらいのものだ
歌の一番いいところは声帯がかすかに震えている時の
わずかな振動をマイクにのせて伝える瞬間であり
それは楽器で言えば
kind of blueにおけるmilesのペットの音だし
glenn gouldのpianoのハンマーが宙を彷徨うのまで見えるような音だ
空気を沢山含んだ極限のピアニッシモ
極限のピアニッシモを出す事がまず難しい
小さい音を客席に届かせるのはマイクだけではなく
音の出し方の基礎がないと届く前に減衰してしまう
それが出来ないから
母曰くのところの
「うるさく」なってしまうのだ
それをコントロールしつつ、スイングしてアドリブして個性的であり続ける
さらに副交感神経を刺激する(落ち着き払う)。
わぁ神業。
それを出来る人の事をプロって言うらしい。
極限のピアニッシモはボイトレでしか磨かれない。
スイング感はタイミングと2拍3連への深い理解が必要だし。
アドリブは知識と度胸と愛嬌とセンスが無いと出来ない。
個性的はそれらが整った場合に残った部分の総称のような気がする。
2)ボリュームと音圧が勘違いされていると
ニュアンスへの感覚が重鈍になる
迫力満点の瞬間をとらえて
ボリュームを大きく弾いていると思ってしまう傾向があるようだが
それは大きな音を出しているのではなく音圧をかけているだけだったりする。
音圧をかけるには技術がいる。
これも言葉の違いが大きい。
英語は音圧をかけまくる言語なのだ
日本語は音圧をほとんどかけない音程言語なので
遠くに伝えるにはボリュームを上げるしか無い
極限ピアニッシモのしぼりきった音も
かすかな音圧の連続なのであるから
それは想像を絶するような負荷な訳だ
横隔膜楽器には特に。
響くという感覚に乏しく相手に伝えるためには”がなる”しかない
言語的文化の影響は大きい。
楽器奏者、歌手、共々かすかな響きを分かち合って共鳴させ合う事でしかだせない
独特の空気がある
それをニュアンスと呼び
それは曲の構成や決めごとや
エンディングが決まるかどうか
イントロからはいれるかどうか
そういった事にはるかに勝る重要性があると私は考えている
だからエンディングがいつもがたがたなのかと思われるかもしれないが
はっきり言ってどうでもいいのだ
逆に一人で弾き語りしている人が
エンディングを三回繰り返してた時は笑止千万!
と思った
初めてあった三人がやる時の決めごとじゃないそういうのは
一人でやるなら
終わりたいときに終わればいいのだ
3)役割分担があるいい音楽と全員が全部を担当する悪い音楽
その根底にあるのは怠惰性と勤勉性。
日本の国民性で評価される「勤勉性」が音楽には決して良くなく出る場合がある
外国の音楽がすかすかに聞こえるのにはいくつかの理由があると思うが
その一つに不必要なときに音を極力出さないというのがある
ギャラに対して出す音の数を決めてるんじゃないだろうか?
と疑いたくなる。
ギャラに対する音単価は間違いなく日本が一番安いだろう。
ドラムは基本チーチキチーチキだけだし
ベースはボゥムボゥム以上。
ピアノはポーン。ポローン。
歌はテーマだけ。
超シンプル。
日本は何かの不安を払拭するかのように
音数が多彩だ。
そういうと、
「じゃぁキースジャレットみたいなああいうのは
どうなっているだ」
と反論されそうだが
無駄な音は一個も出ていないと申し上げたい!
ああいうのを聴いて無駄な音ばかり出すのは大変よろしくない。
どうなっているのかを理解すれば無駄な音などほとんどない事が分かる。
だけどどの楽器でもありがちだけど速弾きカッコいい〜
ついたくさんのパッセージを詰め込む事だけを目標としてしまう
一流の凄い人たちは
役割を100%以上に開花させているだけであり
だからといって決して役割以外の事はしていないのだ
音数が多いから問いって勘違いしてもらっては困るのだ
シンプルがいいというのは
無駄な音を出すなという事と同義だ
シンプルにというと
音数を減らせばいいのかと思われるがそれは違うのだ
音数が減っても無駄な音ばかり出ていては何の意味も無い
4)構造に働きかけるのか方程式に働きかけるのか
良い音楽は曲の構造が面白い。
一方悪い音楽は方程式一個だけで乗り切ろうとする。
(A+B)二乗の中の数字だけ変えてるようなのを良く聴く。
一方いい音楽では毎回新しい方程式にお目見えする。
どうやってんだろう?
いい音楽は余韻とハテナを残してくれる。
悪い音楽は・・・
音楽は難しい。
本当に難しい。
果てもない。
それが面白さだし何処を伸ばしたって伸び過ぎという事は無い。
年齢と体力と精神力の続く限り
続けて行くしか無いのだ
結局当たり前の短い答えに行き着くのだ
この短い答えのために
ごちゃごちゃ
考えたりするわけだ
超無駄!!!
練習しよ。
そっか風邪だったんだ
練習出来ないからこんなに長くなったのだ。
なるほど〜。
日本の音楽はうるさい
あんたが車で聴かせてくれる音楽はどれもこれも素晴らしいのに
これを聴いているはずなのに出てくるのがそれってどういうことだ?
と。
一番厳しい客なのだ。
払いは良いが言いたい事は言わしてもらうぜ
というカッコいいスタンスの
今時(パノ)ニカ婦人風な母なのだ
外国のジャズを聴くとボーカルはみんなささやいているし
バックは歌の邪魔をしない
日本のボーカルものは劇団四季ばりに張ってるし、
また張らないと聞こえないくらいに
バックもでかい。だそうだ。
母の音楽を聴く基準は
其処に存在する人間にとって
邪魔になるかならないかだけだ
素人の聞き方だけど
それは一番大きなザルの目であり
其処さえ通過出来ない音楽って一体!?
何故そういう事になっているのか
端的に言えば技術不足につきるが
それでは身も蓋もないので
もう少しかんがえてみる
外国音楽と日本音楽の決定的違いはいくつかあると思う。
こういうくくりにしてしまうのもどうかと思うので
『分かってる音楽と」『分かってない音楽」というくくりでもいいし
もっと単純に「いい音楽」と『悪い音楽」と書き換えて読んでもらってもいいと思う。
1)いい音楽では演者が副交感神経を興奮させており
悪い音楽では演者は交感神経を興奮させている
やればやるほど落ち着いてリラックスして行くいい音楽に対して
悪い音楽はやればやるほど興奮して行く
スイングしてアドリブして個性的である事がジャズの最低必要条件だとすると
其処にもう一つ、副交感神経が刺激されていなければならない
ということを付け加えたい。
自律神経は意識的にコントロールするのは大変に難しい。
演奏する前に寝る前と同じ気持ちになれといって
オッケー!と答えられるのはローラくらいのものだ
歌の一番いいところは声帯がかすかに震えている時の
わずかな振動をマイクにのせて伝える瞬間であり
それは楽器で言えば
kind of blueにおけるmilesのペットの音だし
glenn gouldのpianoのハンマーが宙を彷徨うのまで見えるような音だ
空気を沢山含んだ極限のピアニッシモ
極限のピアニッシモを出す事がまず難しい
小さい音を客席に届かせるのはマイクだけではなく
音の出し方の基礎がないと届く前に減衰してしまう
それが出来ないから
母曰くのところの
「うるさく」なってしまうのだ
それをコントロールしつつ、スイングしてアドリブして個性的であり続ける
さらに副交感神経を刺激する(落ち着き払う)。
わぁ神業。
それを出来る人の事をプロって言うらしい。
極限のピアニッシモはボイトレでしか磨かれない。
スイング感はタイミングと2拍3連への深い理解が必要だし。
アドリブは知識と度胸と愛嬌とセンスが無いと出来ない。
個性的はそれらが整った場合に残った部分の総称のような気がする。
2)ボリュームと音圧が勘違いされていると
ニュアンスへの感覚が重鈍になる
迫力満点の瞬間をとらえて
ボリュームを大きく弾いていると思ってしまう傾向があるようだが
それは大きな音を出しているのではなく音圧をかけているだけだったりする。
音圧をかけるには技術がいる。
これも言葉の違いが大きい。
英語は音圧をかけまくる言語なのだ
日本語は音圧をほとんどかけない音程言語なので
遠くに伝えるにはボリュームを上げるしか無い
極限ピアニッシモのしぼりきった音も
かすかな音圧の連続なのであるから
それは想像を絶するような負荷な訳だ
横隔膜楽器には特に。
響くという感覚に乏しく相手に伝えるためには”がなる”しかない
言語的文化の影響は大きい。
楽器奏者、歌手、共々かすかな響きを分かち合って共鳴させ合う事でしかだせない
独特の空気がある
それをニュアンスと呼び
それは曲の構成や決めごとや
エンディングが決まるかどうか
イントロからはいれるかどうか
そういった事にはるかに勝る重要性があると私は考えている
だからエンディングがいつもがたがたなのかと思われるかもしれないが
はっきり言ってどうでもいいのだ
逆に一人で弾き語りしている人が
エンディングを三回繰り返してた時は笑止千万!
と思った
初めてあった三人がやる時の決めごとじゃないそういうのは
一人でやるなら
終わりたいときに終わればいいのだ
3)役割分担があるいい音楽と全員が全部を担当する悪い音楽
その根底にあるのは怠惰性と勤勉性。
日本の国民性で評価される「勤勉性」が音楽には決して良くなく出る場合がある
外国の音楽がすかすかに聞こえるのにはいくつかの理由があると思うが
その一つに不必要なときに音を極力出さないというのがある
ギャラに対して出す音の数を決めてるんじゃないだろうか?
と疑いたくなる。
ギャラに対する音単価は間違いなく日本が一番安いだろう。
ドラムは基本チーチキチーチキだけだし
ベースはボゥムボゥム以上。
ピアノはポーン。ポローン。
歌はテーマだけ。
超シンプル。
日本は何かの不安を払拭するかのように
音数が多彩だ。
そういうと、
「じゃぁキースジャレットみたいなああいうのは
どうなっているだ」
と反論されそうだが
無駄な音は一個も出ていないと申し上げたい!
ああいうのを聴いて無駄な音ばかり出すのは大変よろしくない。
どうなっているのかを理解すれば無駄な音などほとんどない事が分かる。
だけどどの楽器でもありがちだけど速弾きカッコいい〜
ついたくさんのパッセージを詰め込む事だけを目標としてしまう
一流の凄い人たちは
役割を100%以上に開花させているだけであり
だからといって決して役割以外の事はしていないのだ
音数が多いから問いって勘違いしてもらっては困るのだ
シンプルがいいというのは
無駄な音を出すなという事と同義だ
シンプルにというと
音数を減らせばいいのかと思われるがそれは違うのだ
音数が減っても無駄な音ばかり出ていては何の意味も無い
4)構造に働きかけるのか方程式に働きかけるのか
良い音楽は曲の構造が面白い。
一方悪い音楽は方程式一個だけで乗り切ろうとする。
(A+B)二乗の中の数字だけ変えてるようなのを良く聴く。
一方いい音楽では毎回新しい方程式にお目見えする。
どうやってんだろう?
いい音楽は余韻とハテナを残してくれる。
悪い音楽は・・・
音楽は難しい。
本当に難しい。
果てもない。
それが面白さだし何処を伸ばしたって伸び過ぎという事は無い。
年齢と体力と精神力の続く限り
続けて行くしか無いのだ
結局当たり前の短い答えに行き着くのだ
この短い答えのために
ごちゃごちゃ
考えたりするわけだ
超無駄!!!
練習しよ。
そっか風邪だったんだ
練習出来ないからこんなに長くなったのだ。
なるほど〜。
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プロフィール
乗馬と音楽を使って体と脳の不思議にドタバタと挑む
共通点を見つけては狂喜し
落馬しては骨折し一筋縄ではいかない
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下北沢に行ってミヤトさんに会いに行きます。
道に迷うのが怖いですが。
p.s
今年の紅白もモーニング娘。は出ませんでした。
AKB48、SKE48、NMB48、HKT48を出すのはどうかと思う。