ボンバードラミだっていいのだ
演奏活動とトレーニング活動。 あるいは日々の介護のこと。 気付いたこと 感じたこと やってみたら巧くいったこと 発見、試作、工夫、改良の日々を綴ります。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
最近人にちらほら教える作業をするようになり
改めて学んでいる
重大な事に気付くときは頭が痛む
少し背伸びしないと届かないところの何かを取りに行っている気分だ
具体的な例を提示
謝ったやり方とそうでないやり方を両方出来ないと
説得出来ない
違いを耳ですぐ分かるくらいにはっきり出さないと
だから頭の中が鮮明になる
なるほど
教えるとは教わる事なのだ結局
昔テニスのインストラクターをしていた頃
師匠に当たるインストラクターとちょっとした
エースを狙えの岡vs宗方 状態だった事がある
ラインぎりぎりアウトとインに打ち分けたり、
センターラインの左右にうち分けたり
最終的にはコートを25分割してそれぞれに
打ち分ける練習をした。
それに強弱スピードも5段階にわける
けど実際試合で使うのは2、3、4あたり。
5は強過ぎでアウトやネットの確率が上がるから使わない
1はドロプショット以外はまぁ使ってもいいけどやられるだけ(^^;)
ゲームプランを想定して、1ポイントの運びを設定し
どのタイミングでフェイントをかけて相手を揺さぶるのか
ゲームのやり方を相当練習した
なぜセンターにこれくらいの力でサーブを打ち込むのか
全てには理由があった
まるで将棋のように
先の事を想定して一打目を打っていた
こういうのは巷のテニススクールではなかなかやらない
ただ打つ練習、試合の形式をやっても実はうまくならない
何故ならその日の体調に影響されているだけで
実際はアドリブなだけ
その日だけの満足感次回に何も持ち越さない
こういう音楽のやり方をしている人を良く見かけるけど
多分意味が無い
テニスでも意味が無いのだから多分音楽でも意味が無い
もちろん癒し、ストレス発散が目的ならそれでもよいだろう
だけど本当の面白さは得られない
こちら側で糸を引いて試合を操っているときの快楽にはかなわないのだ
昔それで一回神懸かり的に凄い試合運びになって
自分でも引くぐらいだった事がある
習得された形式の強さは個人の力を軽く凌駕するのだ
テニスという世界そのものに飲み込まれたような感覚だった
音楽にもその瞬間を感じたい。
しかも表面的な形式の事ではなく
人間という動物の営みとしての
音楽が根幹から理解されたときにしか起きない
ようは自分のやってる事で引くぐらいの事が起きてほしいのだ
それにはコートを25マスに割ってうち分けるとか
そういう初歩的な練習も必要なんだろうし
敵(音楽の場合聴き手。)
を欺くときの感覚を習得する事に
歓びを見いださなければいけないだろうし
一つのゲームの中に形式があり、哲学があり、倫理があり、道徳がある
例えば西行のような考え方が出来れば
技術があまり無くても強いだろうなと思うのだ
考え方、哲学が相手より上回ればこちらに支配権が生まれる
それを使って人を感動させるもよし
音楽にただ猛然と挑むもよし
それは各々のセンスと趣味の問題なのだ
ただ色んな事が中途半端にない交ぜになっているのが人という生き物で
こんがらがったイヤホンのコードをほぐすみたいな作業を
人生と人は呼んでいる
まだ自分のコードは相当こんがらがっているけど
教えるという作業を通じて一つこんがらがりがとれるという事は
どうやら間違いなさそうだ
これは素晴らしい事ではないかと改めて思う
だから私に色々教えた人たちも
今頃私に感謝してんじゃないのかとさえ
思えてきた!
そうやって人は昔から延々何かをつないで来てるんだ
だから何かをつなげてくれようという人がいる時
自分のロープを切れないように張っておきたい
何が来ても受け入れる準備をしておきたい
それも意外と難しい作業だったりする
集中力が足りなかったり
自信が無かったり
プライドが高過ぎたり
出来ない自分と向き合えなかったり
つい諦めちゃったり
そういう余計な自分がコンガラガリを
ひどくさせてるってわかってても
なかなかすんなり諦観して受け入れるって
難しいもんだ
改めて学んでいる
重大な事に気付くときは頭が痛む
少し背伸びしないと届かないところの何かを取りに行っている気分だ
具体的な例を提示
謝ったやり方とそうでないやり方を両方出来ないと
説得出来ない
違いを耳ですぐ分かるくらいにはっきり出さないと
だから頭の中が鮮明になる
なるほど
教えるとは教わる事なのだ結局
昔テニスのインストラクターをしていた頃
師匠に当たるインストラクターとちょっとした
エースを狙えの岡vs宗方 状態だった事がある
ラインぎりぎりアウトとインに打ち分けたり、
センターラインの左右にうち分けたり
最終的にはコートを25分割してそれぞれに
打ち分ける練習をした。
それに強弱スピードも5段階にわける
けど実際試合で使うのは2、3、4あたり。
5は強過ぎでアウトやネットの確率が上がるから使わない
1はドロプショット以外はまぁ使ってもいいけどやられるだけ(^^;)
ゲームプランを想定して、1ポイントの運びを設定し
どのタイミングでフェイントをかけて相手を揺さぶるのか
ゲームのやり方を相当練習した
なぜセンターにこれくらいの力でサーブを打ち込むのか
全てには理由があった
まるで将棋のように
先の事を想定して一打目を打っていた
こういうのは巷のテニススクールではなかなかやらない
ただ打つ練習、試合の形式をやっても実はうまくならない
何故ならその日の体調に影響されているだけで
実際はアドリブなだけ
その日だけの満足感次回に何も持ち越さない
こういう音楽のやり方をしている人を良く見かけるけど
多分意味が無い
テニスでも意味が無いのだから多分音楽でも意味が無い
もちろん癒し、ストレス発散が目的ならそれでもよいだろう
だけど本当の面白さは得られない
こちら側で糸を引いて試合を操っているときの快楽にはかなわないのだ
昔それで一回神懸かり的に凄い試合運びになって
自分でも引くぐらいだった事がある
習得された形式の強さは個人の力を軽く凌駕するのだ
テニスという世界そのものに飲み込まれたような感覚だった
音楽にもその瞬間を感じたい。
しかも表面的な形式の事ではなく
人間という動物の営みとしての
音楽が根幹から理解されたときにしか起きない
ようは自分のやってる事で引くぐらいの事が起きてほしいのだ
それにはコートを25マスに割ってうち分けるとか
そういう初歩的な練習も必要なんだろうし
敵(音楽の場合聴き手。)
を欺くときの感覚を習得する事に
歓びを見いださなければいけないだろうし
一つのゲームの中に形式があり、哲学があり、倫理があり、道徳がある
例えば西行のような考え方が出来れば
技術があまり無くても強いだろうなと思うのだ
考え方、哲学が相手より上回ればこちらに支配権が生まれる
それを使って人を感動させるもよし
音楽にただ猛然と挑むもよし
それは各々のセンスと趣味の問題なのだ
ただ色んな事が中途半端にない交ぜになっているのが人という生き物で
こんがらがったイヤホンのコードをほぐすみたいな作業を
人生と人は呼んでいる
まだ自分のコードは相当こんがらがっているけど
教えるという作業を通じて一つこんがらがりがとれるという事は
どうやら間違いなさそうだ
これは素晴らしい事ではないかと改めて思う
だから私に色々教えた人たちも
今頃私に感謝してんじゃないのかとさえ
思えてきた!
そうやって人は昔から延々何かをつないで来てるんだ
だから何かをつなげてくれようという人がいる時
自分のロープを切れないように張っておきたい
何が来ても受け入れる準備をしておきたい
それも意外と難しい作業だったりする
集中力が足りなかったり
自信が無かったり
プライドが高過ぎたり
出来ない自分と向き合えなかったり
つい諦めちゃったり
そういう余計な自分がコンガラガリを
ひどくさせてるってわかってても
なかなかすんなり諦観して受け入れるって
難しいもんだ
PR
プロフィール
乗馬と音楽を使って体と脳の不思議にドタバタと挑む
共通点を見つけては狂喜し
落馬しては骨折し一筋縄ではいかない
七顛八起人生を綴る
next coming up
最新記事
(02/17)
(12/29)
(11/01)
(09/23)
(08/31)
変更
あと、4月1日、BiSの本を持って行きますね。